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聖徳太子の古戦場、大聖勝軍寺は物部守屋と蘇我馬子の激戦地スポット。

JR大和路線JR八尾駅から国道25号線に向けて歩くこと約10分。

大聖勝軍寺

写真の太子堂交差点を25号線沿い、大阪方面に曲まがると
 

img_4747

大聖勝軍寺の看板が見えてきます。
河内西国霊場一番、聖徳太子霊場二番とあります。
ちなみに聖徳太子霊場一番とは言わずもがな天王寺にあります四天王寺。
で、ここ大聖勝軍寺が二番霊場なんですが、あまり知られていないのが残念。
という事で大聖勝軍寺をもっと知っていただきたくご紹介したいと思います。
なぜに勝軍寺が聖徳太子二番霊場なのかというと、実はこの場所、聖徳太子が四天王寺を建てようと決めたとあるエピソードがある地なんですね。
 

蘇我馬子、聖徳太子軍と物部守屋の合戦場

大聖勝軍寺

聖徳太子古戦場と書かれた大きな碑。
そうここは日本書紀にも記載がある蘇我馬子と物部守屋の合戦場。
仏教伝来を巡って両者は激しく戦う訳です。
時代は遡って聖徳太子の父である用明天皇が即位してわずか1年半で亡くなられます。
天皇が亡くなられると一般的な葬儀にあたる殯(もがり)が行われますが。
その用明天皇の殯(もがり)が明けるとすぐに、次の天皇家争いとして蘇我氏と物部氏の争いが加熱するという時代の話。
ここ大聖勝軍寺がある八尾市の渋川に居を構えていた豪族、物部守屋は仏教を世に広める事に反対する廃仏派。
これに対する蘇我馬子は仏教を世に広める崇仏派。
蘇我馬子はこの物部守屋を倒すべく、当時16歳だった聖徳太子をはじめ蘇我馬子側についた皇族、豪族と共にこの地で合戦を繰り広げたわけです。
 

四天王寺建立のエピソード

大聖勝軍寺

それにしても物部守屋は強かった。
蘇我馬子、聖徳太子軍は物部守屋の軍勢に三度大敗。
このままでは勝てないと思った聖徳太子は願掛けをするんです。
部下四将軍に四天王の像を刻ませたと。
そして「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」by日本書紀。
ようはこの戦いに勝ったならば四天王の為に寺を建てようと誓った訳です。
そうそれが四天王寺なんですね。

 

大聖勝軍寺

大聖勝軍寺にあります聖徳太子像。
聖徳太子を囲む持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王。
 

大聖勝軍寺

それでは参拝。
 

大聖勝軍寺

門をくぐった境内の様子。
人がいませんね。
 

大聖勝軍寺

まずは本殿を参拝。
 

聖徳太子を救った椋(むくのき)

大聖勝軍寺

大聖勝軍寺

続いて神妙椋樹。
 

大聖勝軍寺

「日本書紀」太子伝等に佛教伝来時祟佛の蘇我馬子 敬神の物部守屋が激突 守屋は八尾に「稲城」を築きその兵力強大 祟佛軍三度敗退す太子 守屋の大軍に囲まれた絶対絶滅の時、椋の大木真二つに割れ太子を包み九死に一生を得て太子最後に四天王の加護を祈り守屋も倒す
とあります。
この木が聖徳太子を救った木なんですね。
ということは樹齢1400年以上と言うこと?
 

大聖勝軍寺

これが聖徳太子を救ったと言われる椋の木。
 

大聖勝軍寺

あっ聖徳太子がいました。
 

大聖勝軍寺

大聖勝軍寺

こちらは大聖勝軍寺内にありますお不動様。
 

大聖勝軍寺

お不動様の前に愛くるしいお地蔵さんがいらしたので写真を取っておいた。

古銭供養塔の仕掛けにビックリ

大聖勝軍寺

こちらの境内には古銭供養塔という物が4つあるんです。
ようは古銭で作られたミニチュアの塔。
 

大聖勝軍寺

驚いたのはこちら四天王寺を模したミニチュア。
 

大聖勝軍寺

古銭供養塔に何やらハンドルのような物が付いている。
はっこれは!。
 

大聖勝軍寺

四天王寺にある転法輪。
お釈迦様の教えが他に転じて伝わるのを輪にたとえたもので、仏教の象徴。
合唱して「自浄其意」(心が清浄になりますように)と唱えて軽く右に回す。
あの転法輪が付いている。
回してみると結構ハンドルが重い。
なんだこれは。
力を入れて回す。
すると・・・
 

大聖勝軍寺

おやおや供養塔が廻るではないか。
こりゃ凝った作りだこと。
 

物部守屋を仕留めた矢を埋めた鏑矢塚

大聖勝軍寺

大聖勝軍寺から歩道橋を渡って国道25号線の反対側へ。
歩くこと1分程度。
八尾市立龍華図書館の横に物部守屋が討たれた鏑矢塚があります。
 

鏑矢塚

鏑矢塚

用明二年(587年)に厩戸皇子(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇我馬子らは、渋河の地で物部守屋の軍勢と戦います。稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、四天王に祈願すると迹見 赤檮(とみのいちい)が放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子らは勝利したと「日本書紀」に記されています。
大聖勝軍寺の周辺にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見 赤檮(とみのいちい)が守屋を射た矢を埋めたと「大聖勝軍寺略縁起」(1455)は伝えています。鏑矢とは先端が植物の「かぶら」のような形をしている矢のことです。「日本書紀」にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考えるうえで重要です。
と書かれています。
ここで物部守屋を矢で射た迹見 赤檮(とみのいちい)とは。
彦人大兄皇子の舎人であった迹見 赤檮(とみのいちい)。
当時、彦人大兄皇子自身はこの戦いに参戦しなかったらしい。
その代わりに自身の舎人である弓矢の達人、迹見 赤檮(とみのいちい)を参戦させていたそうな。
榎木の上から弓を放つ守屋を射落とすとその功績をかわれて迹見 赤檮(とみのいちい)は一万代の田を賜ったとの事。
そしてその矢を埋めたのがこの地なんです。
 

鏑矢塚

 

物部守屋のお墓

大聖勝軍寺

聖徳太子を救ったと言われる神妙椋の近くに守屋池があります。
ここは物部守屋を討ち取った首を洗ったと言われる池。
今でも大聖勝軍寺にその池の跡がありました。
 

物部守屋のお墓

物部守屋のお墓

そして大聖勝軍寺から100mほど離れた場所にあるのが物部守屋のお墓。
神道信仰を貫き廃仏派として仏教徒と争った物部守屋の墓の周りには全国の神社がこぞって玉垣を寄進しています。
物部守屋は神社、聖徳太子は寺院という図式がなりたっており、対立する勢力を象徴するゆかりの地がこれほど隣り合わせに近い場所にあるという。
何とも面白い八尾市渋川なんですね。

凄い歴史スポットなのに地味なのか全国的にあまり知名度のない勝軍寺。
ここ八尾市は私の地元でもあるのですが、古い町並みが残り、数々の歴史スポットがある街です。
地味なんですけど奥ゆかしい古き良き街並みが残る場所なんです。
街歩きには良い場所ですよ。
ぜひぜひみなさん訪れてみてくださいな。

ではでは。

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廣田 泰規
投稿者:廣田 泰規
2017年01月08日日曜日 | 00:51
ホームページ制作会社の想いやグチとか、その他雑感を書いております。たまには大阪ローカルネタ等も

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